· 

神様のための宗教、人のための易学/世田谷の韓国占い師 昭晴


ベル四柱推命、六爻占術を勉強する空間です。これに基づき、踏み込んだ分析と専門性のある電話・LINE通話鑑定・対面鑑定・メール鑑定など、様々な形式で鑑定を実施しておりますので、お気軽にご相談下さい。

ご相談及びご受講のお問い合わせ

相談や授業中は電話に出られない場合がございますので、よろしければLINEやメールよりご予約ください。

 

電話 080-1391-4810


神様のための宗教、人のための易学

 

私が教える学生が最近こんなことを言った。ちなみに、その学生の宗教はキリスト教である。

 

「四柱推命に関心があって学んでいますが、私が信じる神様に何となく罪を犯しているようです!」

 

そうして先生の私がこんな返事をした。

 

「四柱推命は、宇宙と自然の規則的な動きの変化を記号化し、人の暮らしの道理を説いていく勉強です。それなら、キリスト教では世界の万物を神様が創造されたと言いますが、神様が作った宇宙と自然の理を勉強して、より望ましい人生を生きるということが神様に罪を犯すのでしょうか?」

 

このような事例のように、多くの人々が易学を勘違いしている。生と死を論じる部分が共通点であるためだ。

 

実際に見ても四柱推命の十二運星や風水の動機感応がそうではないか。

 

五行の誕生と消滅を人の生老病死に例え、意味を付与した十二運星がそうであり、

 

人が死んでどこに埋められるかによって、生きている子孫たちが福を受けるかどうかの動機感応がそうだからだ。

 

人が生きていく態度… つまり、どれだけ善を実践するかという道徳性も宗教と四柱推命の共通点だ。

 

そのためか、易学を学ぶことを一種の修行として受け入れている人もいる。

 

 

まぁ、易学の勉強も修行なら修行だ。正確に言えば易学の勉強そのものが修行ではなく、修行の手段だが、

 

宗教が神様のために作られたとすれば、易学は人間のために作られたというのが両者の違いだろう。

 

ゆえに、同じ人生を論じても、その究極的な目標は違う。宗教はそれぞれの信仰の対象のために動く。

 

例えば、キリスト教はイエス様の聖霊を、仏教は仏様の加被を受けるためが最終目的であるが、

 

易学はそうではない。特定の信仰の対象のために使われているのではない。当然信仰の対象もない。

 

 

したがって、四柱推命学は善悪の区分もない。ただ、生まれた季節と与えられた干支によって多様な人生の姿を見せてくれるだけだ。

 

例えば、⌜あなたは夏に生まれたから善良で、冬に生まれたから悪い。⌟というわけではないのではないか?

 

宗教というものが該当する信仰の対象である【その方】を信じて従い、その方の姿を似るために努力するのであれば...

 

易学というのは与えられた宇宙と自然の中で人間がどんな役割と福禄を持って生まれたのかを知る学問だ。

 

すなわち、易学は徹底的に人に焦点を当てた学問である。そのため易学は人間の生と密接な関係に置かれている。

 

 

宗教はその方を信じる者のものだ。天国もその方を信じる者にあるのだ。

 

言い換えれば、宗教というのは信者のみ該当事項があるのであり、非信者には何の該当事項もないのだ。

 

しかし、易学は信者、非信者ともに該当事項がある。

 

信者、非信者共に地球の上で土を踏み、太陽を含めた天体の気運に影響を受けるからだ。

 

誤解の余地があり得るので、予め明らかにするが、宗教を無視するわけではない。宗教の順機能は認める。宗教が社会で行う役割も無視しない。

 

ただ、宗教と易学は、その志向点が異なるが、この2つを同一視して歪曲して受け入れるなという意味だ。

 

必ずしも万年暦を広げておいて、天干がどうだ、地支がどうだということだけが易学ではない。

 

「日が昇って沈むのも易学だし、春が去り夏が来るのも易学だし、風が吹いて雨が降るのも易学だし、私の住んでいる土地も易学だし、年を取るにつれて顔と手相が変わるのも易学だし、私の子供が私に似て生まれるのも易学だし、私自身が世界約200カ国のうち日本で生まれたのも易学だ!」

 

易学とは、我々の生活そのものなのある。ただ、それを知る者と知らない者がいるだけだ。

 

私たちはみんな神様ではない。私たちは人だ。

 

 

そのため、神様のための宗教が私たちには該当事項がないかもしれないが、人のための易学は私たち全員に該当事項がある!


占いのお問い合わせ&予約はLINEやメールまで。